さて、今日書くエントリーは先日書いた「守・破・離」に基づくお話。
世の中に蔓延る「守」(真似、コピー)批判についてです。
「守」については既述した様に、合理的な意味があり、成長にはかかせない一過程であると記述しました。
しかし、現実的に「守」を柔軟解釈した場合に値する、真似、コピーには批判的な考えが傾向的に見受けられると思います。
確かに、自分が考えだした事を他人が真似をし、あたかも自分が考え出した様に語っていたら、少なからず嫉妬心や、嫌悪感を抱きますよね。
更には「せこい!」や「卑劣な野郎だ!」と言った感情に至る事も、往々にしてあると思います。
しかし、「守・破・離」の教えでは「守」とは本質的に一番基礎となる過程であり、本来称賛されるべきで嫉妬心を抱くのは筋違いなのでは?と思う訳です。
それを象徴的に表しているのが、ビジネスの世界。
ビジネスの世界では真似、コピーといった事が常々行われています。
例えば、A企業がブルーオーシャン(未開拓市場)を開拓し、ビジネスを行っていたら必ずB、C、D企業といった他社もA企業をモデルとして参入してきます。
また、商品、技術、ノウハウ等も「金」が絡むビジネス世界では、我先にと競合企業間で真似が行われています。
そして、消費者である我々は、企業間で真似があろうが何であろうが、ただイイものを買います。
ここには、供給側と需要側の意思の合致しかありません。
これは、真似、コピーによって競合間で新たな価値が創造される事を意味するのだと思います。
上述した様に、ビジネス世界では「守」の柔軟解釈に値する真似、コピーが限りなく合理的に行われているのです。(特許権、著作権等の保護手段はありますが)
本家本元のA社をB社が真似し(守)、自社の強みを生かし(破)新たにA社よりも良い商品を開発すれば(離)、商売は当然成り立つ訳です。
「お金」という冷酷な一面を持つ要素が判断に加わると、需要と供給さえ合致すれば、卑劣、せこいと言った考えが無意味な事だと気付けるのだと思います。(もちろん法律に定められた範囲内で)
こういう風に考えると、「守」に対する批判的な考えが非常に無意味に思えます。
それ以上に大事なのは、真似されてでも、批判されてでも、もっといいものを真似して(=いいとこ取りして)、その人以上の実力を身につけてやる!といった、野心。
自分の柱さえ折らずに愚直に行動していれば、遂には「離」に達する事が出来ると思います。
僕は、この「守・破・離」に基づいて、不器用ながらも愚直に歩き続けようと思います
Keep walking!!
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